地域紛争

1.パレスチナ紛争

パレスチナという土地は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教という3つの宗教にとって聖地であり、聖地でもあるこの土地に自分たちの国を作りたい@ユ;ダヤ:人(ユダヤ教)と@ア;ラブ:人(イスラム教)の間で繰り広げられているのがパレスチナ紛争。

1933年、ドイツにヒトラーによるナチスドイツ政権が誕生し、ヒトラーはユダヤ人の大量虐殺を始め,イギリスやアメリカを中心に,ユダヤ人の国をパレスチナに作ろうという@シ;オニズム:運動が盛んになった。1948年にはパレスチナにユダヤ人の国@イ;スラエル:が誕生したが、ユダヤ人たちはパレスチナに住んでいたアラブ人たちを追い出し、迫害してしまった。

パレスチナを追い出されたアラブ人たちは@P;LO:(パレスチナ解放機構)を組織し、パレスチナをユダヤ人から取り戻すために戦い、イスラム教のアラブ人の国はPLOを支援した。このパレスチナをめぐるユダヤ人とアラブ人の戦争のことを@中;東:戦争といい、今まで4回もあった。特に第;4:次中東戦争は@オ;イル・ショック:という世界混乱を引き起こした。

1993年にはアメリカの@ク;リントン:大統領の仲介のもと、イスラエルの@ラ;ビン:首相とPLOの@ア;ラファト:議長の間に和平協定が結ばれ、イスラエルの周りにアラブ人の国家である@パ;レスチナ:暫定政府が作られることになった。翌年にはラビン首相とアラファト議長はノーベル平和賞を受賞。しかし、ラビン首相が、仲間であるユダヤ人に暗殺され、和平反対派のネタニヤフが首相になると、また両者の関係は悪化した。

2003年にはアメリカのブッシュ(息子)大統領の仲介のもと、イスラエルのシャロン首相とパレスチナ暫定政府のアッバス議長の間で再び和平協定が結ばれ、2005年末までにパレスチナ暫定政府を国として認めることやテロの停止などが約束された。

2.旧ユーゴスラビア紛争

第二次世界大戦後、ユーゴスラビアは@ソ;連:の支援のもと、社会主義国として誕生したが、その社会主義政策が改革的なものでソ連の好みに合わなかったため、ソ連の社会主義同盟から追放。

大統領に就任した@チ;トー:大統領の政策のもと、うまく人々は団結し、平和な国家を作り上げ、サラエボ・冬季オリンピックまで開かれた。

1981年にチトー大統領が死亡し、1988年に@ミ;ロシェビッチ:が大統領に就任。、彼が@セ;ルビア:人であったことから、セルビア人に有利な政治を始めた。1991年にミロシェビッチのセルビア人中心の政治に反発して、スロベニア人がスロベニア、クロアチア人が@ク;ロアチア:、マケドニア人がマケドニアとして、ユーゴスラビアからの分離独立を宣言。その結果、独立した国と独立に反対するユーゴスラビアとの間に激しい戦闘が起きたが、この3つの国は独立を果たした。

1992年に@ボ;スニア・ヘルツェゴビナ:がユーゴスラビアからの独立を宣言したが、セルビア人がこの独立に反対し、ユーゴスラビア政府の支援を受けて戦争を始めた。

1995年に国連の仲介のもと和平が結ばれ、ボスニア・ヘルツェゴビナは1つの国の中にセルビア人の居住区が設けられ、@N;ATO:軍の監視下に置かれることになった。

1998年にミロシェビッチが@コ;ソボ:においてアルバニア人の大量虐殺を行ったため、アルバニア人中心のコソボはユーゴスラビアからの独立を宣言し、ユーゴスラビアと戦闘状態となる。

コソボ軍をアメリカを中心とする@N;ATO:軍が支援してユーゴスラビアを空爆し、コソボは国連の管理に置かれ、コソボ共和国として独立した政治が認められることになった。

ミロシェビッチが退陣したあとのユーゴスラビア政府は、国名をユーゴスラビアから@セ;ルビア・モンテネグロ:に変更し、モンテネグロ人に独立を抑制するようにアピールした。

3.北アイルランド紛争

1949年に@カ;トリック:の多いアイルランド共和国がイギリスから独立を果たしたのちでも、アイルランドの中でもプロテスタントが多い地域であった北部のアルスター地方は、住民の意向で北アイルランドとして同じプロテスタントの国であるイギリスに残ることになった。

しかし、アイルランド人の中でアイルランド島全土の統一を願う人たちが、過激派組織@I;RA:(アイルランド共和国軍)を組織し、北アイルランドやイギリス本土でテロ活動を行った。

4.チェチェン紛争

日本でロシアと呼ばれている国の正式名称は@ロ;シア連邦:でキリスト教の種類である@ギ;リシャ正:教の国であり、89の共和国・自治管区・自治州をひとまとめにした連邦国家である。@イ;スラム:教徒の多いチェチェン共和国であっても、各地域の共和国は、独自の地方自治を行うことができている。

しかし1991年にソ連が崩壊すると、ソ連は15の国に分裂し、それぞれ独立。チェチェン共和国も独立を宣言したが、ロシアはこれを認めず、ここにチェチェンとロシアによる紛争が始まった。ロシアにとって、チェチェン共和国はカスピ海にあるバクー油田から石油を供給する@パ;イプライン:の通り道になっており、石油の安定確保のためには手放すことのできない土地であったためである。

2度の戦闘ののち、チェチェン共和国の軍隊はロシア軍に制圧されたが、イスラム教徒であるチェチェン人の過激派は、国外のイスラム教過激派の支援を受け、幅広い地域でのテロ活動を行っていくようになった。

5.東ティモール独立

1974年にポルトガルから社会主義国家「東ティモール民主共和国」の独立を宣言した。

インドネシアの@ス;ハルト:大統領は東ティモールをインドネシアと合併させることにより、社会主義国の誕生を防ごうとした。

1978年末に東ティモールはインドネシア軍によって完全に制圧され、インドネシアの領土の一部となったが、インドネシア政府の強引な侵略に反発する住民が多かったため、その後もインドネシア軍が東ティモール住民の弾圧を続け、武力で住民を従わせてきた。

しかし、1991年にインドネシア軍の発砲より東ティモール住民の独立支持者のうち200人以上が死亡し、このことが海外で放映され、世界中に東ティモールの事実が暴露された。

2002年5月、東ティモールは独立し、「東ティモール民主共和国」として;国連:にも加盟した。

6.カシミール紛争

20世紀初め、ガンジーの努力によりインドはイギリスからの独立を勝ち取ったあと、インドはヒンドゥー教徒の国であるインドとイスラム教徒の国である@パ;キスタン:、さらに仏教徒の国である@ス;リランカ:という3つの国に分裂。さらに、1971年にはパキスタンから@バ;ングラディシュ:が独立、結果宗教上の違いから4つの国に分裂。

 インドからパキスタンが分離独立するとき、2つの国の間に位置する豊かな農業地帯「カシミール地方」をどちらの国の領土にするかが問題となった。ここにカシミール地方をめぐるインドとパキスタンの戦争がスタート。

 1949年には国連の仲介のもと、停戦が合意され、カシミール地方はインド側とパキスタン側の2つの地域に分断。しかし、1961年と1971年には再び両者による大きな戦争となった。 

両者の対立は、核兵器の開発競争にまで発展し、1998年にはインドが核実験に成功したのに続き、@パ;キスタン:も成功し、対立するインドとパキスタンはそろって核兵器を持つ国となった。 

7.アメリカ同時多発テロ事件

1.ブッシュ大統領は石油が豊富な中東アジアに対して積極的な進出を目指したが、イスラム教過激派組織@ア;ルカイーダ:のリーダー、オサマ・ビン・ラディンはそれを不快に感じた。テロ活動を行うイスラム教信者のことを@イ;スラム原理:主義者といい、イスラム教以外の宗教は敵であると考えている。

2001年9月11日、ビン・ラディンは何人かのイスラム教信者に、4機の飛行機をハイジャックさせ、そのうちの2機がニューヨークの@世界:貿易センター:ビルのツインタワーに激突し、1機はアメリカの国防総省(日本の防衛庁)「ペンタゴン」に突入、もう1機は大統領府「ホワイトハウス」に突っ込む予定でしたが何とか阻止された。これらの事件により、合計3000人もの人たちが死に、この事件はアメリカ同時多発テロ事件といわれた。

怒ったアメリカのブッシュ大統領が、報復措置として、事件の首謀者オサマ・ビン・ラディンをかくまっているとされるアフガニスタンの@タ;リバーン:政権を攻撃。アフガニスタンにはアメリカを支持する国がアメリカ主導によってつくられた

イスラム教テロ組織に対するブッシュ大統領の攻勢は続き、2003年3月には、テロ組織を支援し、核兵器を保有しているという理由で、@フ;セイン:大統領のイラクを国連の安全保障理事会の議決を得ずに、攻撃に踏み切り、イラク戦争が勃発。

アメリカ勝利後、イラクにもフセイン政権に変わり、アメリカを支持する政府がアメリカ主導によって作られた。また、イラクを占領後、アメリカ軍は核兵器を探したが、持っていなかったことが判明。

8.日本の外交政策

 1945年第二次世界大戦が終結すると、日本ではアメリカ軍の占領が始まり、1951年に@サ;ンフランシスコ:講和条約が結ばれることにより、日本は独立を達成。しかし、この条約には次のような欠点があった。

① 西側の国との講和条約であり、東側(ソ連など)の国との講和条約ではなかった。

② 近隣の;中国:や韓国とは講和を結ぶことができなかった。

③ このときの日本の領土の規定があいまいだったため、その後の:領土:問題を引き起こした。

 ソ連は調印せず、中国は中華人民共和国VS中華民国の対立中で、韓国・北朝鮮も朝鮮戦争の最中だったため参加せず、日本と講和しなかった。

1956年に日本はソ連との間に@日;ソ共同:宣言を調印したが、和解が難航した@北;方領土:問題はあとまわしにされた。しかし、ソ連が拒否権を行使しなくなったため、この年に日本は@国;際連合:への加盟を達成。

1965年に@日;韓基本:条約を結び、日本は韓国を朝鮮半島における唯一の政府と認めたが、一方北朝鮮との関係は悪化。

1972年に中国とも国交を結ぶため、@日;中共同:声明に調印。日本は中華人民共和国を中国における唯一の政府と認めたため、中華民国(台湾)との間に国交は現在までないままになっている。

2002年に小泉首相が日本の首相としては初めて北朝鮮を公式訪問し、日本と北朝鮮が国交を結ぶために努力することを約束した@日;朝平壌:宣言を発表。しかし、金正日国家主席が日本人の拉致を発表したことため、日本と北朝鮮の関係はその後進展していない。

韓国の金大中前大統領が、北朝鮮と穏やかに関係を改善しようとしていくことを、イソップ童話の「北風と太陽」に例えた@太;陽:政策により、韓国と北朝鮮の関係は改善された。しかし、その後、金正日による核保有宣言などの問題が浮上し、北朝鮮問題は@6;カ国:協議(北朝鮮、日本、アメリカ、中国、韓国、ロシア)などで解決しようと試みているが進展していない。

領土問題

対立国

問題

北方領土問題

日本 VS ロシア

北海道の東にある北方四島(@択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島に、第二次世界大戦終了直前にソ連軍が攻め込んできて、日本人は追い出され、その後ソ連(ロシア)が島を占領し続けている。

竹島問題

日本 VS 韓国 (VS北朝鮮)

日本海に浮かぶ無人島、竹島(韓国名:独島)周辺はカニやカレイの漁場として有名なため、日本と韓国がその領有を主張しあっている。現在この島には韓国軍が駐留している。

尖閣諸島問題

日本 VS 中国 (+台湾)

沖縄の西端に浮かぶ無人島群、尖閣諸島周辺は明治時代以降日本が領有してきたが、、国連の調査で石油や@天然ガスが取れるとわかってから、中国や台湾が領有を主張するようになって来た。

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